Sさんの思い出



私がSさんの歌声を初めて聞いたのは22歳の時で、
それはYさんの古いテープに入っていた。
Yさんは高校時代にバンドをやっていて、
何度かライヴをやったことがあるというので
その時録音した音源をいくつか私に聴かせてくれたのである。
最初の曲は当時流行っていたサザンの『勝手にシンドバッド』で、
そのイントロを聴きながら、私は懐かしい江ノ島の海を思い出していた。
そして歌が始まり、突然私は恋に落ちたのである!
もしも彼の声に顔が付いているとしたら、それはまさしく「一目惚れ」だった。
声質に特徴があり、何よりも彼の歌にはグルーヴがあったからだ。

「この人は誰なの?」私はすぐYさんに尋ねた。
すると「歌、上手いでしょ?Sっていうんだけどね。
一つ年下の後輩で、
ひょんなことから一緒にバンドをやるようになったんだ。」と教えてくれた。
私はYさんの話を聞きながら、
彼のことをもっと知りたいという想いが強く湧いてきて、
次の『マスカレード』を聴いた時、
それは言葉になって口からあふれ出てきたのである。

「Sさんはこの時まだ16歳だよね。
なのに英語の発音は完璧だしリズム感が凄くいい。
このグルーヴはいったいどこからきているの?
Sさんはどんな音楽を聴いていたの?」と尋ねたら、
「彼はジャズやブラック・コンテンポラリーが好きで、
学校の行き帰りはいつも、
大きいラジカセを肩にかつぎながらそれに合わせて歌ってたよ。
それも歌だけじゃなくてね、
バックのホーンなんかも"パッパラパラパラパッパッパーッ"なんて、
大声で歌うから、通り過ぎるおばちゃん達はSのことを怪訝な顔して見てたな。
電車の中でも歌ってた。人目を気にしないんだ。
それはあいつのすごいところでもある。
一緒にいて恥ずかしいと思った時もあったけど、
何しろ歌は抜群に上手かった。
今までバンドをやった誰よりもね!」と苦笑しながら話してくれた。

Yさんは久しぶりにSさんの声を聞いて、
彼との思い出が走馬灯のように浮かんできたようだった。
それらはインパクトのある内容ばかりで、私は目を丸くして聞き入った。
「あいつはけっこう頭が良くてね。
集中力がもの凄いから成績もよかったな〜。
特に数学ができたね。
現役で難関大学にも合格したし、一流企業にも就職したよ。

でも高校のころね、
こいつ、どこで勉強してたと思う?
庭に出て画板を机がわりにして勉強してたんだよ!
それもラジカセの音楽に合わせて歌を歌いながら勉強してた。
真夏のカンカン照りの下、
そばでは犬が小屋から顔出してワンワン吠えてるんだからね〜
フツ〜じゃないでしょ?
相当ユニークってことよ。」

「そうそう、夏になるとあいつはいつも
上半身裸の短パン一つで授業を受けてたんだ。
廊下歩いているときもそう。
でも誰も注意しないんだよね〜。
女の子達も慣れているのか、特別な反応もなかったしね。
担任の先生などに呼ばれるときは
『S、服を着て職員室に来るように!』
という校内アナウンスが全校に響き渡り、
校舎中の生徒達が大笑いしていた。ガハハ・・・・・」

私は嘘みたいな本当の話を笑いころげながら聞いていたが、
「でも逞しいよね。そういう人、私、好きだな・・・」と半分真顔で答えた。
私はSさんのユニークな人柄を想像しつつ、
ハスキー・ヴォイスに耳を傾けながら
「・・・もったいないね。
磨けばもっと光る才能を持っているのに・・・
一度でいいからSさんの歌を生で聴いてみたいな。」とつぶやいた。
Yさんも真剣な顔つきに戻って頷きながら
「確かにもったいない。Sは今どこにいるんだろう。」と答えたので、
私はすかさず
「Sさんに会ってじかに歌を聴いてみたい。
お願いします、会わせて下さい。」と懇願した。

やがてYさんはSさんと連絡をつけることができ、
私たちはとうとう3人で会うことになったのだ。

その日のことは今でも忘れられない。
初めてお会いするSさんは大柄で体格も良く、
シャイな感じを漂よわせながらもフレンドリーに接してくれた。
Sさんは業界で働いているせいか、粋なお店をたくさん知っていて、
私たちをおいしい天ぷら屋さんに招待してくださった。
私は料理に舌鼓を打ちながらも、
頭の中は早くSさんの歌を聴きたいという想いでいっぱいだった。
一生懸命気を遣ってくれるSさんに、
「私はあなたの歌の大ファンです。
今日お会いできることをとても楽しみにしていました。」
と自分の気持ちをストレートに伝えた。
そのくらい私は彼の歌に惚れ込んでいたのだ。

夕食後、Sさん行きつけの別のお店に移動し、我々はソファーに座った。
そこはゴージャスな絨毯のひかれたお洒落なパブだった。
「飲み物は何がいい?おつまみはどうする?」と尋ねるSさんに向かって、
私は「何もいりません。あなたの歌が聴きたいんです。」と単刀直入に言ったら、
Sさんは飲み物を適当に注文してくれて、
ようやくマイクに手を伸ばしてくれたのである。

流れてきた曲は、
ジャズのスタンダード・ナンバー
『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』だった。
Sさんのジャジーでソウルフルな歌声を聴いた時、
私はあまりの感激で鳥肌が立ち呆然としてしまった。
彼は普段英語をしゃべらないし、
帰国子女でもないのに、ネイティブと同じように発音することができる。
その上、ジャズ・シンガーみたいに即興でフェイクを入れながら
自由自在に言葉を操ってメロディにのせていた。
ハスキーな声もラヴ・ソングではスィートに響き、
私は甘い夢を見ているかのようにうっとりしながら彼の歌に耳を傾けたのだ。
彼は自分の音楽の才能を、何度となく歌い込んだであろうこの1曲で、
あますところなく私たちに示してくれたのである。
一緒に聴いていたYさんは
「昔も上手かったけれど、ますますだな〜」と唸っていた。

この日を境に私は時々Sさんと連絡をとるようになり、
その2年後、Sさんと一緒に念願のライヴも行うことができた。
私は連絡をとる度にSさんにシンガーになることをすすめた。
でもSさんには安定した仕事があったため、
浮き沈みの激しいショウ・ビジネスの世界には抵抗があったらしい。

ある時、彼の夢は本当はシンガーになることだったと打ち明けてくれた。
私とバンドを組んだ後、密かにボイス・トレーニングを始め、
ある大手レコード会社の幹部と知り合いになって
デビュー寸前まで漕ぎ着けたそうである。
自分で詩を書き、著名な作曲家に曲を作ってもらったらしいが、
最後の最後でレコード会社の言いなりになれない自分に気がついて、
夢を諦めたそうだ。
Sさんが悔しがりながら言っていた言葉が印象的だった。
「僕は楽器が何もできないんだ。せめてひとつぐらいできたら・・・。
曲をレコーディングする時、プロのキーボード奏者がバックで弾いてくれたんだけど、
彼の弾き方がどうしても自分の感性と合わなくて・・・」

今から5年前、YさんとTさん、Sさん、そして私の4人で会ったことがある。
Tさんはプロのギタリストで、高校生の頃、Sさんと一緒によくジャズ喫茶へ
行ったとおっしゃっていた。
Tさんはとても優しくて人情に厚い方だ。
また機会があったら、あのメロウなギターを聴かせていただきたいと思っている。

Sさんはその時、
おいしい水炊きといも焼酎の旨い店があるといってご馳走してくださった。
その後Sさんの知り合いのバーに連れて行って下さり、
そこで4曲歌ってくれたのだ。
1曲目はSさんの好きなスティーヴィー・ワンダーの『Lately』、
2曲目はミーシャの『Everything』だった。
どちらもあまりの上手さに、私はため息をつきながら聴いた。
彼は歌っている最中にマイクを時折お腹のあたりまで下げるのだが、
声量があるために、声のピッチが弱くなることは全くなかった。
後にSさんの『Lately』をアメリカ人の友人J君が聴いて、
「彼は日本人ですか?まるでネイティヴが歌っているみたいだ」とコメントしてくれた。
それほど彼の発音は自然で巧みだということである。

次の2曲は私がリクエストした
『Love Me Tender』と『好きにならずにいられない』だった。
Sさんはエルヴィスの曲を歌うのは初めてで、全く自信がないと最初は躊躇していたが、
私はどうしてもSさんのエルヴィス・ソングが聴きたかったので、
無理を言って歌ってもらったのである。
そうしたら、Sさん特有の気恥ずかしさからくるダジャレを連発させながら、
自分流のアレンジでエルヴィスの歌を歌ってくれたのだ。
・・・いくらふざけて歌ったとはいえ、
それは隣で聞いている私にとってこの上もなく素晴らしいものだった。
練習したら完成度の高い曲に仕上がっただろうし、
もっとソウルを込めて歌ってくれたのなら、
それは『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』以上の感動を
私に与えてくれたにちがいない。

歌に心を込める。
これはとても難しいことだが、特にバラードを歌う時は
テクニック以上に大切なことだと私は思っている。
ではどうしたらそんな心境になれるのだろうか・・・。
やはり恋愛を実際に体験するのが一番の近道だろう。
ロマンチックになったり、せつない気持ちを味わうことで心は成長し、
魂から自然と想いがあふれ出て歌に注ぎ込まれるのだから。
時にそれは悲しい結末を迎えるかもしれない。
でも、空想よりも経験から得られる感情にまさるものはないと思っている。
多くのビッグ・アーティストたちがそこからインスピレーションを得ているように。

今、Sさんはどうしているのだろう。
後にも先にも私がシンガーになることをすすめた人はSさんしかいない。
またあのグルーヴィーな歌声が聴きたい・・・
正直に自分の気持ちを表現するSさんにまた会いたい・・・
彼のことを思い出す度にそう思うのである。



『Lately』
              Written by Stevie Wonder in 1980 

Lately, I have had the strangest feeling
With no vivid reason here to find
Yet the thought of losing you's been hanging
round my mind

このごろ 気持ちが晴れないんだ
これといった理由もないのに

君を失うんじゃないかという不安にかられてる

Far more frequently you're wearing perfume
With you say no special place to go
But when I ask will you be coming back soon
You don't know, never know

君はしょっちゅう香水をつけるようになったね
"たいした用じゃないのよ"って言
うけれど
"早く帰ってきてくれ"とたのんでも
"そんなの、わからない"ってはぐらかす

Well, I'm a man of many wishes
Hope my premonition misses
But what I really feel my eyes won't let me hide
'Cause they always start to cry
'Cause this time could mean goodbye

 
そう 僕は多くを望み過ぎなんだ
どうか 嫌な予感が当たりませんように
でも 僕の目は 悲しみにくれる心の内を語り出し
今にも涙がこぼれ落ちそうだ
きっと別れが待っているのだから

Lately I've been staring in the mirror
Very slowly picking me apart
Trying to tell myself I have no reason
With your heart

このごろ僕は 鏡を見つめては
自分をこき下ろし

君をつなぎとめるだけの価値なんてどこにもないと
言い聞かせているよ
 
Just the other night while you were sleeping
I vaguely heard you whisper someone's name
But when I ask you of the thoughts your keeping
You just say nothing's changed
 
ある晩 君が寝言で
他の男の名をつぶやくのを耳にした
なのに 僕が気持ちを尋ねても
 "何も変わってないわ"と答えるだけ
 
Well, I'm a man of many wishes
I hope my premonition misses
But what I really feel my eyes won't let me hide
'Cause they always start to cry
'Cause this time could mean goodbye, goodbye

あぁ 僕は多くを望み過ぎなんだ

どうか 嫌な予感が当たりませんように
でも 僕の目は 悲しみにくれる心の内を語り出し
今にも涙がこぼれ落ちそうだ
きっと別れが待っているのだから 
 
Oh, I'm a man of many wishes
I hope my premonition misses
But what I really feel my eyes won't let me hide
'Cause they always start to cry
'Cause this time could mean goodbye
 
あぁ 僕は多くを望み過ぎなんだ
どうか 嫌な予感が当たりませんように
でも 僕の目は 悲しみにくれる心の内を語り出し
今にも涙がこぼれ落ちそうだ
きっと別れが待っているのだから


訳詩: Kaori

Sさんの歌声
『SAGA』
『マスカレード』

『Lately』
『Love Me Tender』
『好きにならずにいられない』

<08・2・23>